若き親兵衛の悩み

 親兵衛は悩んでいた。 「それにしても、不思議よのう」  京都管領細河政元は、そのままで、親兵衛をつくづくと眺めた。早くも酔い が廻ったのか目許を赤く染め、熱を帯びた執拗な視線を送ってくる。 「この身体のどこに、あのような力があるのか。何しろ自分の倍ほどもある徳 用を、赤子のごとく持ち上げてしまうのだから」 「……いささか、出すぎた真似をしました」 「いや、なんの。さすがの暴法師(あらほうし)も、神童には敵わなかったと 見える」  愉快そうに云って、政元は親兵衛の少しも減らない盃に酒を満たした。  結城での恨みを晴らそうと悪僧徳用が仕組んだ試合で、親兵衛は快勝した。 徳用が政元の乳兄弟であることから手加減していたのだが、最後にはつい理性 を失ってしまった。使命も終え一刻も早く帰国したいのに、理不尽にも京都へ 留め置かれるのは、すべて徳用のせいだ。―――もちろん、冷静に考えればそ れだけのはずはないのだが、不意にそんな思いが込み上げた。目の前の悪僧を 片手で抱え上げ、「投げ殺すかそっと置くか」などと云って人々を慌てさせた。  ところが、そんな親兵衛の武勇が政元に気に入られてしまった。試合の翌日 からたびたび召し出されては、食事や話の相手をさせられたり、武器や衣裳を 賜ることもしばしばだった。 「―――あの……」 「何だ?」 「……いえ」  親兵衛は悩んでいた。  話の相手は退屈だが、知っていることを訊かれれば答えもする。無理やり贈 られたものは、帰国を許された時にすべて返すつもりだった。その為、与えた ものを何故身に着けぬのかと政元に詰(なじ)られることもあった。  あらゆることを我慢していた。ただ、安房へ帰ることだけを願って。  だけど。  どうして、こんなことに耐えなければならないのか。伏姫神はこの試練に、 どんな意味を持たせようとしているのか。 「おまえは幼い頃から深山で神女に育てられたと云うが、武術は誰に習ったの か?」 「はい。文学武芸、すべて神女が教えてくださいました」 「ほお、その博識だけでなく、弓馬剣術までも。しかし、山中となれば何かと 不便も多かったであろう。その点、都(ここ)には何でもある。おまえが望め ば、何なりと取り寄せてやるのだが」  目の前に並んだのは山海の珍味。富山はもちろん、滝田や稲村の城でも見た ことのないような豪華な膳だ。しかし、親兵衛にとってはどれも砂ほどの味も しない。  それは、すべてにおいて同じだった。確かに都は華やかで、人々は着飾り、 美しい物や珍しい物があふれている。けれども、親兵衛にとっては何の興味も ないことだった。いくら政元に訊かれても、欲しい物など何もなかった。  ただ、願うことは一つだけ。 「何も要りません。何度も申し上げていますが、帰国を許していただけること が、何より有難い贈り物です」  礼儀は弁えているが、もともと遠慮をするような性格ではない。帰国の件は、 折にふれて何度も訴えている。だが、政元の答はいつも同じだった。 「わしもそうしてやりたいのだが、なかなか上様の許しが出なくてな」  嘘だということは知っていた。親兵衛を京都に抑留せよという将軍の命令な どないことは、紀二六からの密書に記されていた。里見の家臣から引き離され て幽閉されている親兵衛は、蜑崎照文の家来である紀二六を商人に変装させて 密かに連絡を取っていた。 「―――だが、方法がないでもない」  不意に、政元がもったいぶったように云った。 「方法……?」  思わず視線を上げると、相手の顔が意外なほど近くにあった。柄にもなく、 親兵衛はたじろぐ。 「なぁに、それほど難しいことではない」  ずっと、この宴の最初からずっと我慢していた腿の上の政元の手が、今や耐 え難いまでになっていた。袴をゆっくりと撫でさする手のひらの熱は、生地を 通してさえ皮膚に感じられる。  正直、不快だった。  悩んでいたのは、いっそ席を立ってしまってもいいのではないかという誘惑。 あるいは、この手首を掴み、そのまま後ろ手に捻り上げ、あまつさえ投げ飛ば してしまいたいという衝動。  そんな親兵衛の心中を知ってか知らずか、政元の薄い唇が、ニヤリと左右に 引かれた。 「今宵の伽(とぎ)を務めるだけでよい」  確かに、難しいことではなかった。しかし、ただそれだけで済む話とも思え ない。 「夜伽、ですか……?」  それだけで済む話とも思えないが、もしも何か裏があったとしても(その「何 か」が何なのかは親兵衛には判らないのだが)まさか命までは取られまい。今 夜一晩が無事に過ぎ去れば、明日は自由の身ということだ。 「どうだ? 難しいことではないであろう?」  顔を覗きこまれて、あまりの近さに顎を引いた。 「ええ、ですが―――」  何故、自分が即答できないでいるのか。何を迷う必要があるのかは判らない が、親兵衛は云い淀んだ。  政元は膝にあるのとは別の手で、親兵衛の顎を捉えた。強引に顔を引き寄せ られて、親兵衛はできる限り視線を背けた。 「……本当に、明日の帰国をお約束くださるのですか?」  政元はおかしそうに笑った。酒臭い息がかかる。 「疑うなら、一筆書いてもよいぞ。―――ただし、明日になってもまだおまえ が帰りたいと思うのであれば」  上手く思考が働かなかった。何よりも早くこの状況から逃れたい。承知さえ すれば、今この手からも、そして明日はこの地からさえも解放されるのだ。  親兵衛が返事をしようとした、その時。  一瞬、胸のあたりが熱くなった。そこには、ちょうど護身袋に入った霊玉が ある。 咄嗟に親兵衛は、己の判断力を鈍らせている原因を掴んだ。さすがに捻り上 げはしなかったけれど。 「何をする!?」  呆れたように政元が云う。親兵衛は貴人の手を放し、素早く距離を取って頭 を下げた。 「無礼は承知で申し上げます。……またの機会をいただけないでしょうか?」 「またの機会など、あるかのう」  政元は掴まれた手首を、もう一方の手でわざとらしくさすった。 「あの、今日は気分が優れぬので……」  親兵衛が慎重になるのには訳があった。里見家の公務を果たした後、政元に 引き止められた時に、親兵衛はすぐさま断った。仮にも将軍の命令に従わない とは何事かと政元は怒り、とりなした照文に迷惑をかけたことを今でも悔いて いるのだ。親兵衛が主君と仰ぐのは里見の両侯だけだが、その忠信を貫くだけ が常に正しいとは限らないのだと知らされた瞬間でもあった。 「ほお、気分が。例の神授の薬でも飲めばよかろう」 「そ、それは……」  他人が聞いたら驚くかも知れないが、嘘をつくのはあまり得意ではない。弱 冠九歳の親兵衛がいつも堂々としていられたのは、伏姫神の冥護があったから だ。しかし、今回の旅はこれまでとは勝手が違った。  三河国苛子崎で海賊に襲われたのは、元はと云えば親兵衛の不注意が招いた ことだ。そして、一歩間違えたら貢物を失うばかりか、溺れ死んでしまうかも 知れなかった。日頃から神童などともてはやされ、いつの間にか怖いものなど 何もないと思い上がっていたのだろう。水練が不得手であることにすら気づい ていなかったのだからお笑い草だ。  京に着いてからも、先に述べたような過ちを犯した。政元の一連の行動に関 して親兵衛は我慢を強いられてきたが、この試練に対する伏姫神の真意が解ら ない。だから、親兵衛は自信がなかった。  ただ、胸の霊玉は脈打つごとく熱を伝えてくる。まるで何事か警告するかの ように。母の胎内にいる時から親兵衛と共にあった霊玉は、姫神と並んで常に 親兵衛の身を護ってくれる存在だった。その霊玉が引き止めるのであれば、迂 闊に承諾するわけにはいかない。それなのに――― 「困った顔も悪くないのう」  巧い言い訳の一つも思いつかない。己の無力さを感じた。 「恐れながら相公(との)に申し上げます」  縁側から、政元の従者が呼びかけた。 「雪吹姫様の発作がいつもより酷いご様子で」 「何っ、雪吹が……」  妻も実子もない政元だが、養女の雪吹姫を殊のほか可愛がっている。 「親兵衛、今日のところは下がってよい」  慌てて出て行く政元を見送り、親兵衛はホッと息を吐いた。  その帰り、宿所に向かう道すがら親兵衛は手紙を書こうと考えていた。政元 の態度や今日の出来事をそのまま書き、どう対処すべきか意見を求めよう。も ちろん、万が一のことを考えて以前にも使ったことのある炙り出しの手法にす る。一見ただの白紙にしか見えないが、あの人ならばすぐこちらの意図に気づ いてくれるだろう。明日、これを饅頭の代金に紛れさせて紀二六に渡し、安房 へ届けさせるつもりだ。  そう腹は決まったものの、鬱々とした気分のまま馬に揺られていた。秋の日 は短く、まだ宵の口だというのにすっかり暗くなっている。風はやや冷たいく らいだが、飲み慣れない酒で火照った頬には心地よいくらいだった。  急に周囲の供人のざわめきが起こり、親兵衛は手綱を引いた。 「こら、子ども。そこを退け!」  見れば、貧しい身なりの子どもが、細い両手を広げて立ちはだかっている。 親兵衛より四つ五つ下くらいで、故郷にいる弟分の力二郎・尺八とちょうど同 い年ほどだろうか。彼らの丸々とした丈夫な姿と比べると、目の前の骨と皮ば かりに痩せた子どもの姿には胸が痛む。  子どもは捕らえようとする従者の手をすり抜けて、親兵衛の馬の前に跪いた。 「犬江様にお願いします!」  云って、土埃の舞う地面に額を押し付けた。 「母ちゃんを助けてください! ……母ちゃんの病魔をやっつけてくださ い!」  先の試合で京都五虎と呼ばれる猛者をことごとく倒してしまった親兵衛は、 都じゅうの人々に鬼神のごとく恐れられていた。それは、親兵衛の名前を書い た札が魔除けになると広く信仰されるほどであった。 「子ども、さっさと退かないか!」 「―――待て」  従者を制止し、親兵衛は子どもを呼び寄せた。  腰の印籠から神授の丸薬を一つまみ取り、紙に包んで差し出した。 「これを母親へ飲ませてごらん」 「あ、有難うございますっ!!」  伏姫から授けられた神薬は死者をも蘇生させるが、性悪の者は定められた寿 命に逆らうことができない場合もある。しかし、この孝心に篤い子どもの母親 が悪人のはずはない。何より、親のない寂しさならば親兵衛自身が一番よく知 っている。この子に自分と同じ思いなどさせたくなかった。 「有難うございます、有難うございます」  子どもは何度も何度も頭を下げた。  一刻も早く安房へ帰ろう―――改めて、親兵衛は決心した。故郷にはもう本 当の両親はいないけれど、それでも七人の義兄弟を始めとして自分を待ってく れている人たちがいる。  親兵衛は星空を見上げた。この同じ夜空が遠く安房の国まで続いていること を、心強く思った。  ちなみに親兵衛が今回の助言を求める相手として毛野を選んだことは、まご うことなき伏姫神の冥助であった。何故ならちょうど同じ頃、故郷の安房では 義兄弟のうち六人が不毛な論争を繰り広げていたことを、親兵衛はもちろん知 る由もなかった。                                ■終■
原作の政元主はシャイないいとこのお坊ちゃまで、親兵衛にラブレターを書こう か、それとも誰かに伝えてもらおうか、などと思い悩みます。まあ、片思いのお 相手には歯牙にもかけられないわけですが。魔性の美少年、親兵衛……?

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