掌中の珠

「申し訳ない……!」  そう云って頭を下げたきり、その額は畳から離れなかった。  細い肩だと思う。とてもではないが、たった独り滸我城で死体の山を築いた ような剛の者には見えない。けれども、あの見八とほぼ互角だったと云うのだ から、力量は本物なのだろう。藩中無双と云われる見八の実力は、乳兄弟であ る自分がよく知っている。自分自身、もしも見八の得意な得物で戦うとなれば、 敵うかどうかさえ判らない。 「詫びてもらうような、理由などない」  小文吾は云った。  ビクリと肩が揺れる。膝の前に揃えられた両の拳は、固く握り締められてい た。皮膚が白くなるほどに握られている拳は、しかし、いまだ乾かない血に濡 れている。彼が羽織っている木綿の単衣(ひとえ)も、まるでもとが赤い布だ ったかのごとく血に染まっていた。 「もちろん……謝って済むようなことでは―――」 「そうではないよ」  小文吾は、額づく相手の肩に手を掛けた。そうする己の手も、同じように血 に濡れていた。 「顔を上げてくれ、信乃」 「し、しかし……」 「これはあんたの責任ではない。それを云うなら、俺だって同罪だ。……いや、 俺自身の罪になるのだろう。何故なら、俺が―――」  斬ったのだ。義弟の、首を。  一気に斬り下げた。一瞬のことで、手ごたえなど何もなかった。覚えていな いはずだった。それなのに。 今になって手が震えるのだ。  信乃が上半身を起こした。縋るように小文吾の二の腕を掴む。 「違う! そなたには何の罪も責任もない」  よく似ていた。小文吾が斬った、義弟に。  房八が身代わりになろうと思いついただけあって、信乃は義弟によく似てい た。房八は、我が妹の夫にはもったいないくらいの男前だった。輪郭と、特に 目許が酷似しているせいで、全体的に同じような雰囲気になっている。  信乃は今、その目許を涙で濡らしていた。  思えば、この男はよく泣く。己の感情に素直なのだろう。常に表情の変わら ない見八や、できるだけ感情の発露を抑えようとしている自分には、きっと真 似できない。 「すべては私のせいだ。私などの矮小な存在を生かす為に、貴重な命が二つも 失われたのだ」  血に染まった部屋。畳はもとより、見慣れた襖や床間の掛軸にさえ、血飛沫 が模様を描いている。鞘に納めた刀はまだ手許に転がっていたが、房八と沼藺 の亡骸は次の間に移されたようだ。歌うような低い声が聞こえている。念玉坊 ―――ゝ大の読経が続いているのだろう。 「信乃、そんなことを云ってはいけない。あんたの命が救うに値しないものだ ったら、では何故、房八もお沼藺も死んだのだ?」  先祖の相伝とは云え、人血が破傷風に効くなどと本気で信じていたわけでは なかったが、妹夫婦の血を浴びた信乃は完全に快復している。さっきまで、高 熱で意識さえ定かではなかったのだ。 「だが、もし私が行徳に現れなければ、房八殿は命を落とすことなどなかった のではないか? そうすれば、お沼藺殿だって……!」 「いや、あんたと俺はいずれにしろ必ず出会う運命だ。ならば、房八の採る道 も変わらないし、あれの因縁もまた宿命だったのだろう」  小文吾の震えは、信乃にも伝染したらしい。信乃はそれを押さえ込むかのよ うに、痛いくらい強く小文吾の腕を握っている。 「……私には重過ぎる」  反対に、声は弱々しかった。再び俯いた信乃の頬から滴が落ちて、小文吾の 膝を濡らす。赤い涙だ。涙が頬の血を洗い流しているのだ。 「私の手は、ほんの一瞬の判断で、人の生を簡単に終わらせることができる。 相手が極悪人であっても、決して軽いものではない。まして、房八殿には何の 落ち度もないではないか! そんな善良な人の未来を奪ってまで、生きなくて はならないのか、私は。それほどの人間なのか?」 「房八を斬ったのは、俺だ」 「結果的に、それをさせたのは私だろう? そなたに、こんな辛く恐ろしい選 択をさせたのは、私ではないか!」  そうではないのだ。  小文吾は、傍らの刀に視線を落とした。鍔には、千切れた紙縒りの端が、ま だ虚しく結びついている。一時的な感情に駆られて刀を抜かぬように戒めた紙 縒りは、今や義弟の血を吸って赤く染まっていた。  小文吾もまた、人の生を簡単に終わらせることができる力を持っていた。父 はそれを懸念して、紙縒りを結んだ。小文吾には、死闘の最中でも相手の善悪 を考える信乃のような冷静さが足りず、自分が牢獄に繋がれてさえも信念を貫 く見八のごとき心の強さもない。  房八の挑発に、その理由を推し量ろうともせず、斬りつけた。しかも、致命 傷を与えたのは、相手が油断した隙を衝いたからだ。 一瞬とは云え、本気で殺そうとした。 刀を抜いてしまえば、相手が誰であれ「敵」になる。「敵」を倒すこと以外 考えられなくなる。いつかその性が重大な過ちを導くかも知れないことは、父 に戒められるまでもなく、解っていた。今がそうでないと、どうして云えよう か。今更、悔いてももう遅い。泣くことができない小文吾は、この血を洗い流 すこともできない。  先程から口にしているのは、信乃の為の言葉ではない。一連の出来事を正当 化し納得することで、自分自身が救われたいだけなのだ。 「おじさま、どうして泣いているの?」  例えば凍える冬の日に、雲間からさっと陽光が射したようだった。舌足らず なその言葉は、眩しさと暖かさをもって小文吾と、おそらく信乃をも照らした。 「大八……」  今宵親兵衛と名づけられた幼児(おさなご)が、小文吾を覗き込んでいた。 「俺が泣いているように見えるか? 涙など、出ていないだろう?」  無理に作った笑顔を、親兵衛は小首を傾げて眺めていたが、 「やっぱり泣いているよ」  と云って、小さな掌で頬に触れた。  その時、本当に小文吾の眸から涙が零れ落ちた。  これで救われる、と思った。どんなに言葉を重ねても、この温かい掌には敵 わない。目の前の幼い存在は、ただ純真なだけで小文吾を救ってしまった。 「こっちのお侍さんも、泣いているね? 何かいいものあげるから、泣いちゃ ダメだよ」  信乃は、親兵衛を抱きしめた。そのまま「済まない」と繰り返す。逃れよう ともがいていた親兵衛が、ふと信乃の顔に目をとめた。 「ととさま……?」  はっとして信乃は、小文吾と顔を見合わせた。 「……違うよね。ととさまは、あちらで寝ていらっしゃるから」  二人の心中(しんちゅう)など知るべくもなく、幼児は無邪気に云う。 「ねえ、待ってて。ばばさまに、何かいいものもらって来てあげる」  親兵衛は、転がるように駆けて行ってしまった。 「……可愛いな」  信乃が云った。呆然としたように、自分の両手を見つめている。 「小さくて、温かで」 「……ああ」 「あんな幼い子の両親を奪ってしまった。親のいない辛さなら、自分が一番よ く知っているというのに」 「信乃……」  小文吾は、信乃の両手首を掴んで膝に下ろさせた。いつの間にか、震えは止 まっていた。 「不思議だな。大八は血縁の俺よりも、あんたによく似ている」 「房八殿と沼藺殿の血なら、傷口から私の中に流れ込んでいる。二人は私の中 で生きているのだ。ならば、私が夫婦に代わって親とも兄ともなろう」  ようやく、信乃は笑みを見せた。 「あまり、子守には自信がないのだが」 「今も逃げられたしな」  二人は小さく笑った。そして、小文吾は懐から、例の珠を取り出した。 「どのみち、俺たちはもう兄弟も同じ。大八には、あと五人も兄弟がいる。そ のうち三人はまだ誰かは判らないけれども」  残る珠は、礼、智、忠の三つ。いずれも劣らぬ賢しき丈夫(ますらお)であ ろう。 「俺たち皆が大八……親兵衛の親となれば、房八も沼藺も心強いに違いない。 親兵衛を孤児(みなしご)になどするものか」  小文吾が云えば、信乃も頷いて拳で涙を拭った。 「後に里見殿にお仕えした時に、一緒に戦場に立つことがあれば、私は自分の 命に代えてもあの子を護る。それが山林夫婦に対する恩返しになるだろう」  信乃は晴れやかな顔で云った。親兵衛は確かに、信乃をも救ったのだ。もし も親兵衛がいなかったら、見かけによらず頑固なこの男のことだ。義の為に、 せっかく助かった命を自ら絶ってしまったかも知れない。  掌中の珠、とはよく云ったものだ。小文吾は、手の上で輝く、小さく透きと おった宝をつくづくと眺めた。  遠くで、鶏の啼く声がした。  振り返れば、東の方角が白んできている。小文吾たちにとって長かった夜が 今、明けようとしていた。                                ■終■
新年早々、血みどろで済みません…。新年早々、虚実織り交ぜてお送りして おります…? 何だかんだ云って、親兵衛を伏姫に盗られちゃった使えない オジさんたちのお話でございます…。

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