船上にて

 初めてあの人に出会った時のことは、忘れない。  いや、正確に云えば、初めてではない。本当は、おれがほんの幼い頃に出会 っている。しかし、その時のおれは今のおれではない。  おれはまだ「犬江親兵衛仁」ではなく、父上から頂いた名を名乗っていた。  もっとも、名前の問題ではない。まったく別の人間だった。何故なら――― 山林房八の子、真平あるいは大八としてのおれは、一度死んだのだから。 「どうした、ぼんやりして?」  不意に声をかけられ、我に返る。振り仰ぐと、小文吾の大きな身体がすぐ後 ろにあった。小文吾は「どっこらしょ」と云って、隣に腰を下ろす。船がやや 傾(かし)いだ気がした。 「なんだ、伯父さんか」 「オジサンさんとはご挨拶だな」  若々しさとはかけ離れたかけ声など棚に上げて、小文吾は不服そうに呟く。 実際、小文吾はおれの母上の兄なのだから、「伯父さん」で間違っていない。  小文吾はどこからか丸い小石を取り出して投げた。小石は器用に水面を何回 か切って、最後に川の中へ消えた。  墨田川の流れは静かだった。穏やかな春の陽にきらめく川面(かわも)を、 船は安房へ向かって悠々と進んでいる。柔らかな風が、川岸から桜の花びらを 運んできた。 「疲れたか?」  おれは首を振った。 「今回はおまえの活躍で勝ったようなものだからな」  結城でゝ大和尚が大法要を行うというと聞いて駆けつけてみれば、すでにそ こでは戦いが始まっていた。初めて犬士の面々と顔を合わせたというのに、き ちんと名乗る暇もなかった。それが半月前の話だ。その後、以前に七犬士が世 話になったという氷垣老人の屋敷に逗留していた。 「おおい、小文吾。そなたの番だぞ」  船の真ん中あたりで輪になった犬士のなかから、道節が呼びかけた。皆は手 に札のようなものを持っている。その札で勝ち負けを競って遊ぶらしい。 「俺はいい。しばらく抜ける」  そう答える小文吾に、道節がにやりとする。 「さては、風向きが悪くなってきたと見える」 「そんなことはない。さっきまで俺が勝っていただろう?」 「ふふん、どうだか」  そのとき、荘助がおれを手招いた。 「親兵衛くんも加わったらどうですか?」  戸惑うおれに、今度は大角が云った。 「知らないのなら、私が教えてさしあげますよ」  確かに、伏姫は学問を教えてくれはしたが、そんな世俗の遊びなどは教えて くれなかった。 「どうせ教わるなら、連敗の大角などではなく、全勝の私になさい」 「毛野さん、聞き捨てなりませんな」 「まあまあ、お二人とも」  荘助が止めに入る一方で、道節がはやしたて、現八は寡黙に何かを考え、そ して信乃は笑って皆を眺めていた。 「行くか?」  小文吾に問われ、おれは否と答える。荘助の視線に気づき、 「もう少しここにいます。後で仲間に入れてください」  と、急いで云い添えた。  皆が、それぞれに頷いた。笑顔や、納得した顔や、満足げな表情で。  おれは何故かいたたまれないような気持ちに襲われ、再び顔を水面に向けた。 柔らかな水飛沫(しぶき)が頬に跳ねる。背後では、再び談笑が始まっていた。 「……ごめんなさい」  小文吾はこちらを見ずに、おれの頭に掌を載せた。 「気にすることはないさ。連中だって、好き勝手にやってるだけなんだから」  気を遣われていることは明らかだった。  氷垣老人の屋敷では、婿の有種も交えて、全員が打ち解けている様子だった。 事情のよく解らぬおれに、氷垣老人は彼らと犬士たちの浅からぬ因縁について 親切に教えてくれたものだ。本当は、小文吾だって皆と楽しく過ごしたいだろ うに、おれが血縁のせいか、何くれとなく世話を焼いてくれる。  他の皆にしてもそうだった。きっと、おれがまだ子どもだからいけないのだ。  伏姫の許(もと)を離れてから、出会う人々は皆おれが強いと云った。同じ 年齢の子どもに比べたら、身体が大きくて力も強いらしい。だけど、やっぱり おれは子どもだ。こんなとき、どうしたらいいのか判らない。 「親兵衛、海は好きか?」  既に船は河口まで来ていた。すぐ眼前に海が広がっている。  「海というより、船は好きだな。……父上が、何度か乗せてくれたことがある」  おれの生まれた家は船問屋だった。もちろん、商売のことはほとんど憶えて いない。ただ、不自由だった左手を引かれ、船着場へよく連れて行かれた記憶 だけは残っている。 「……そうか、そうだったな」  まだおれの頭に上にあった小文吾の大きな掌に力がこもった。 「房八の……父のことは、憶えているのか?」 「…………」  おそらく、小文吾も同じ人物のことを思い浮かべているに違いない。  犬塚信乃。  父房八が、身代わりに首を差し出して命を助けたという、その人。人相書き を配った役人すら騙し通せるほどに、二人は瓜二つだったという。  初めて信乃に出会った時のことは、忘れない。それまで、まるで夢の中の住 人のように曖昧だった父上の容貌が、一瞬にして鮮明になった。それとともに、 記憶の彼方に忘れかけていた懐かしい思い出までもが蘇った。そして、不自由 だった頃の左手を包む温かい掌の感覚は、父上のものだったのだとようやく知 ったのだった。  結城を逃れ古寺で追手を待ちながら明かした夜、信乃は泣いた。  おれの顔を見るなり、済まないと云って静かに涙を流した。言葉はただそれ だけで、後はおれの両手を強く握るだけだった。当たり前のことなのに、記憶 にある掌よりもずっと小さく感じることに気を取られて、おれは何も云えなか った。震える手を、握り返すことさえできなかった。今はもう、左手も自由に 動かすことができるというのに。  そして、いまだにおれは何も云っていない。  伝えなければならないことはたくさん、ある。でも、実際に面と向かったら 何も云えないのだ。結果、どことなく信乃を避けるような形になってしまい、 仲間の輪にも入ることができない。故に、小文吾や他の犬士たちにも気を遣わ せてしまっている。  きっと、信乃は―――いや、他の皆だって誤解している。おれは、少しも恨 んでなどいない。信乃のことも、小文吾のことも、もちろん父上のことも。む しろ、父上のことは誇りに思う。父上は大八の命を奪ったのではなく、親兵衛 に大きなものを与えてくれた。それが今、ここにある。 「房八は立派な男だった」 「……うん」  記憶にある父上は、柔和な表情をした話し方も物腰も穏やかな人で、それほ ど大柄だったという印象はない。だが、剣の腕はおろか相撲でさえも、この巨 漢の小文吾とほとんど互角だったという。また人望も厚く、小文吾と並んで近 隣の多くの若者に慕われていたという話だ。 「信乃も立派な男だ」  知っている。  自分の命を救うために人が命を失うことで、どんなに信乃が苦しんだか、伏 姫から聞かされていた。何より、あの涙を見れば、信乃がどんな人物であるか など一目瞭然である。だから、おれは恨んでなどおらず、それどころか―――  後方の車座で、一際大きな笑い声がわき起こった。 「また、毛野さんが勝ったみたいだね」  派手好きで目立ちたがり屋の道節は、負けるのが悔しいとみえて大騒ぎして いる。心配性の荘助がとりなす声もする。  やがて、足音も派手に、道節がこちらへやって来た。 「毛野のやつ、おなごのような顔をして、腹の中では何をたくらんでいるやら さっぱり判らんぞ」 「ふん、大袈裟な」  小文吾が鼻で哂(わら)った。その小文吾を、道節がまじまじと見る。小文 吾はきまり悪そうに目を逸らした。 「……何だ?」 「いや。そなた、毛野に惚れているのだったな。これは申し訳ないことを云っ た」 「馬鹿なっ……!」  そのときの、小文吾の顔といったら。一瞬にして真っ赤になり、何か云おう にも言葉が出てこない様子は、さながら餌を与えられたときの鯉のようだ。  一方、道節は真面目な顔をしているものの、目が笑っている。小文吾をから かって面白がっているのが明らかだった。 「小文吾、どうかしましたか?」  当の毛野は、道節の言葉が聞こえなかったようだ。他の皆も同様で、おれた ちの方に集まってくる。 「ええい、寄るな! 船が傾くではないか」 「まさか。そんなヤワな船ではないわ」 「現八の云う通り。船が傾いたくらいで、どうにかなるような、ヤワな我等で はないぞ」 「それとこれとは話が別だろう、道節」 「小文吾さん、顔が赤いようですが、大丈夫ですか?」 「ええい、うるさいっ!」  小文吾、一喝。ちょうどそのとき、本当に船が揺れた。  そして、どんな偶然のいたずらなのか、たまたま(だと思うが)毛野が小文 吾の方に軽くよろけた。もちろん身の軽い毛野のこと、すぐに体勢を立て直す。 しかし、それを見逃す道節ではない。お馴染みの、悪趣味な笑いを浮かべた。 「まあ、照れるでない」 「道節、いい加減にしないと―――」 「おれ、解るけどなあー」  思わず口にしていた。小文吾が何故これほど嫌がるのか不思議だった。毛野 は、下手をしたら並みの女性よりもずっと美しく、頭もいい。小文吾が惚れて いるとしても、どうして隠す必要があろうか。 「だって、毛野さん、美人だし」 「……親兵衛〜〜〜!!」  小文吾の掌が、おれの髪の毛を乱暴にかき回した。  道節が、今度こそ豪快に笑う。何が可笑しいのか、他の犬士たちもつられた ように笑い出した。父上に似た信乃の、優しげな顔も笑っていた。  微風に流されて、里を離れた桜の花びらが二枚、三枚、と舞う。  里見の両侯が待ちかねている安房までは、あともう少しだった。                                ■終■
お、お疲れさまでした…。ここまでたどり着いていただき有難うございました。 たぶん、その言葉とか遊びとか当時はないだろうなあとは思うのですが、まあ もともとがフィクションですし、大目に見てやってくださいませ。

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