沙羅

※この話は舞台「里見八犬伝」をもとにしています。

 白い花びらをいっぱいに広げた清楚な花が咲いている。中心のしべの黄色が 鮮やかだ。この夏椿は、あの年―――南総を侵していた謎の疫病が鎮まった年 に、私と兄が植えたものだった。いつか森いっぱいに白い花が咲く時が来れば いい、と私たちはよく話していたものだ。  あれから七年が経つ。
 鍋の蓋を開けた途端、私はひっくり返った。 「ひっ―――!」  まともに声も出ないまま、土間を尻で後退る。鍋の中にいた大きな蝦蟇は、 一つ跳躍すると私の手元のすぐ側まで跳んできた。動くに動けず、じっとにら み合っていると、戸の陰から忍び笑いが聞こえた。 「こら、玄吉、あんたの仕業ね!」  悪戯の犯人に見当がついて声をかけるが、戸外からの返事はない。そのうち、 蝦蟇は更なる跳躍をした。 「ぎゃあ! ちょ、ちょっと玄吉、なんとかして―――!!」  膝上に着地した蟇蛙から顔をそむけ、私は半泣きになって叫ぶ。忍び笑いは 大笑いになったものの、当の玄吉は姿を見せようとはしなかった。  その時、部屋の障子がガラリと引き開けられた。  さっと土間に下り立った真平は、蝦蟇を片手で掴むと戸口に投げつけた。飛 翔した蝦蟇は、ちょうどそこに顔を出した玄吉の顔面に当たった。 「何するんだ、真平!」  玄吉は心張棒を掴むと、上段に構えて真平に飛び掛って来た。真平は咄嗟に 柄杓で受ける。そのまま二人は上に下にともの凄い速さで打ち合う。得物こそ でたらめだが太刀筋はしっかりしていて、両人ともとても十にもならない子ど もとは思えない。  二人はさすがにいまだ腰を抜かしたままの私を踏みはしなかったが、しかし 戸板は外れ、鍋や食器が散らばり、壊れた水桶の周辺は水浸しで、かまどの灰 と土埃が舞い、障子にはいくつか穴が開いた。 「やめなさい、二人とも……!」  云ってはみるが、私などの手に負えるはずがない。と、そこへ。  開いたままになっていた障子から、誰かが飛び出して来た。 「玄吉、真平、やめないか!」  一喝、小文吾が二人の間に割って入り、あっという間に両人それぞれの頬を 張った。呆然とする二人に、小文吾は私を指差して云った。 「二人とも、めい姉ちゃんに謝れ」 「……そして、この可哀相な蝦蟇にも」  その声に全員が戸口を振り向いた。角太郎がぐったりした蝦蟇を手のひらに 載せて立っていた。 「おまえには何の罪もないと云うのに。……そうだ、わたし特製の気付薬をや ろう。さて、蝦蟇にも効くかしらん」  蝦蟇に優しげに話しかけながら、角太郎は行ってしまった。 「……解らないな」  真平が呟いた。 「どうして玄吉が怒っているのか、どうして小文吾にぶたれたのか、どうして めい姉ちゃんに謝らなければならないのか、どうして蟇蛙が可哀相なのか、お れには解らない」  普段から真平にはこういうところがあった。決してふざけているわけではな く、本当に他人の感情が理解できないのだ、と一戊(イチボウ)法師も云って いた。 「だったら謝らなければいいさ。ま、俺だって謝らないけどな」  玄吉が小文吾をねめつけた。こちらは感情云々という問題ではなく、単にひ ねくれ者なだけだ。だいたい、こんな悪戯をするのは玄吉しかいない。 「どうでもいいけど、早く片付けたら?」  いつの間に現われたのか、土間の隅に女子のように綺麗な子どもが立ってい た。毛野はしかしその愛らしい顔に似合わぬ冷淡な口調で述べた。 「でないと、いつまでたっても夕飯にありつけないじゃないの」  そうだった、と私も慌てて立ち上がった。 「玄吉、真平は土間を片付けること。小文吾は二人をちゃんと監督するのよ。 あと、毛野は道一郎を捜して来て」  子どもたちに云いおいて、私は代えの水桶を持って表に出た。
 井戸端で裏のお勝に声をかけられた。 「おめいちゃん、さっき凄い音がしてたけど、また喧嘩かい?」  近所なので、もちろんお勝は六人の個性あふれる子どもたちのことは承知し ている。親のない彼らを一戊法師が引き取り、その一戊法師が旅に出ているこ とが多い故に、実質私が子どもらの面倒を見ていることもよく知っている。な ので、二十に近い私が「このままだと嫁に行けなくなる」といつも心配してく れているのだった。 「相変わらず、総八さんから便りはないのかい?」 「ええ、兄からは何も」  あの疫病で私たち兄妹も両親を喪った。南総が平穏を取り戻した後、もとか ら百姓を嫌がっていた兄は、武芸の修行と称してして旅に出た。そして、この 七年間噂一つ聞かない。当時まだ幼かった私は一戊法師に拾われ、身の回りの 手伝いなどするうちに、気づけば家族が一人また一人と増えていった。  それは、私にとって苦ではない。血の繋がった兄の行方は知れないが、賑や かな弟たちが大勢いる。むしろ、楽しいことであった。 「そういや、うちの人が云ってたけど、一戊法師が帰って来てるようだよ」 「え、本当?」  自然と声が弾む。顔を上げると、垣根沿いに咲く白い花が目に入った。一戊 法師はどうかすると一年くらい平気で帰って来ないこともあるが、この夏椿が 咲く季節だけは必ず私たちの側にいてくれる。  お勝は額の汗を拭いながら続けた。 「今回は……半年ぶりかい? 法師も若いのに熱心なことだねえ。もとは武士 だったそうだけど」  一体何があったんだか、というお勝の言葉に、私は曖昧に微笑んだ。  正確なことは私も知らない。ただ初めて出会った時、一戊法師は確かに二本 の刀を差していた。私と兄が植えた夏椿の根元に、美しい透明な玉を一緒に埋 めさせて欲しいと云った。酷く悲しげで疲れきった表情なのに、瞳だけは強く 輝いているような、不思議な印象だったことをよく覚えている。だから、きっ と相当に辛い経験と固い意志とを二つながらにその身に背負っているのだ、と 想像するばかりだった。 あ、とお勝が口を押さえる。噂の本人が現われたからだ。 「おめい、元気だったかい? お勝さんもお変わりなく?」  笠の下からにこりと微笑まれ、お勝は顔を赤くしている。何しろ一戊法師と きたら、僧形にもかかわらず鼻筋の通った優しげな目許の偉丈夫なのだ。 「めい姉ちゃん、貸して」  不意に両手が軽くなる。見れば、道一郎が水桶を抱えていた。 「あら、あんた今までどこにいたの?」 「道一郎は森の外れまで私を迎えに来てくれたんだ」  一戊法師の言に道一郎が頷く。三人はお勝に挨拶をして、家に向かった。 「じゃあ、あたし毛野に捜すように頼んだんだけど、会わなかった?」 「オレたちは会ってない」 「まあ、毛野であれば問題を起こすこともないだろうし、心配しなくてもすぐ 帰るだろう」  一戊法師の云う通り、毛野は万事に要領のいい子どもだった。心配と云えば むしろ玄吉と真平の方だ。二人はきちんと片付けをしているだろうか。 「一戊法師、今日も玄吉と真平が喧嘩をしたの。原因は玄吉の悪戯だったんだ けど」  まだ外れて倒れたままの戸板を見て少々不安になりながら、私は云った。内 からはガタガタという音とともに、小文吾の玄吉を叱る声も漏れてくる。 「何だか面白そうだな」と、ニヤリとして道一郎が駆けて行く。 その背を見送って一戊法師が呟いた。 「やはり、玄吉は誠実でいることができず嘘をついたり人を疑ったりしてしま うのだろうな」 「……え?」 「おめい、あの子たちには欠けているものが一つずつあるのだ。―――でも、 今はそれでいい」  欠けているものを埋めること、それが彼らに与えられた試練なのだから。  そう云って、一戊法師は悲しげな顔で笑った。
 いつもより半時ほど遅れて夕飯の支度ができた時。私の心配の種は思わぬ人 物からもたらされた。今日は久しぶりに一戊法師もいるので、子どもたちも皆 どこか落ち着かない。土産話や剣術の稽古をねだったり、競って気を惹こうと したり、挙句に口喧嘩になったりと、いつも以上に賑やかだ。  全員を座につかせると、一つだけ空になった。 「……あら、角太郎は?」  蝦蟇を手に消えてから、誰も姿を見た者はいない。面倒見のよい小文吾が、 立ち上がって出て行く。すぐに土間から悲鳴が聞こえた。 「小文吾?」  私たちもぞろぞろと土間に下りて、立ち尽くす小文吾の足元へ行灯を差し向 けた。  知らない顔だ。  歳の頃は、子どもらと変わらないくらい。痩せた身体に着古した単衣をまと っている。そして、その大きく切り裂かれた左袖が血に染まっていた。怪我を した子どもは、己が左腕を右手でぎゅっと押さえながら、歯を食いしばって皆 を見上げていた。 「一体、誰に―――」 「おめい、そんなことより手当てが先だ」  一戊法師が子どもの側に膝をついた。云われて、私は手ぬぐいを取りに戻り、 道一郎は盥に湯を汲み、小文吾が膏薬を、毛野が替えの着物を持って来た。  部屋に上げ、傷口をしばり、着替えさせると、子どもの顔色はだいぶよくな った。聞けば二親はおらず、近隣の者ではないようだが、どうしてこんなとこ ろにいるのかということは喋らなかった。行く当てはないと云う。 「名は?」 「額蔵」  その名を聞いた一戊法師は、大きく頷いた。 「行くところがないのであれば、ここにいなさい」  額蔵はすぐには頷かない。子どもらしからぬ疑り深い目で、一戊法師とそれ から私を見た。 「心配することはない。ここにいる子どもらは、皆おまえと同じような境遇の 者ばかりだ」  それに、と一戊法師は続ける。 「ここにおまえたちが集うことは予め定められたことなのだ」  と、またあの悲しげな微笑を浮かべた。  その時、障子が開いた。そちらを見た子どもたちが、息を呑んだ。  振り返ると、玄吉に二の腕を掴まれた角太郎が立っていた。  その手には血に濡れた腰刀をぶら下げている。 「あいつにやられた!」  額蔵が叫んで、一戊法師の背に隠れた。 「ま、まさか……角太郎、本当なの!?」  私の知る限り、角太郎はやや風変わりではあるが、大人しくて穏やかな子ど もだった。当の角太郎は、ぼんやりした表情で、突っ立っている。玄吉に腕を 強く引かれ、ようやく私に焦点を合わせた角太郎は、ゆっくりと頷いた。 「どうして、そんなことを……?」  だが、角太郎が口を開く気配はない。  やがて一戊法師が角太郎の前に行き、握られたままだった短刀をそっと引き 取った。 「角太郎、おまえに怪我はないんだな?」  角太郎が頷くのを見届け、一戊法師は背中越しに云った。 「皆そろったことだし、飯にしよう」 「……え!? で、でも―――」 「冗談じゃないや!」  私よりも先に抗議の声が上がった。立ち上がった額蔵が、角太郎を指差す。 「こんな物騒なやつと一緒に暮らせるわけがない」 「なら、あんたが出て行けばいいじゃない?」  そう云ったのは、毛野だった。 「私らだって、泥棒なんかと暮らしたくはないんだからさ」 「泥棒って?」  毛野はなまじ綺麗なだけに、酷く冷たく見える無表情で云った。 「こいつ、お勝さんのところに盗みに入ったんだ。だけど何も持ってないとこ ろを見ると、目ぼしいものがなかったんだね」 「な、何でそれを―――」  思わず口走った額蔵は、慌てて続きを呑みこんだ。それを横目に、道一郎も 口を出してくる。 「昼間オレも村で噂を聞いた。見知らぬ子どもには気をつけろって、村ではだ いぶ話題になってた」  観念したのか、額蔵は項垂れた。その細い頸がとても哀れに見える。 「額蔵はもう盗みはしない」  皆の目が一戊法師に集まった。 「何故なら、今までは生きるためにそうする必要があった。だが、今はもう盗 みをしなくても暮らしていくことができるのだから」  私だって一戊法師に出会っていなかったら、どんな暮らしをしていたか想像 もできない。それは、ここにいる子どもたちすべて同じだった。 「もちろん、罪は償わなくてはならない。しかし、それはこれからでもできる」  さあ飯にしよう、と今度こそ皆が立ち上がった―――のだが。  また誰かの悲鳴が上がり、暗がりに灯りを向けると、戸口を背に立っていた のは真平だった。 「落ちてた」と差し出された手のひらには、あまり正視したくないものが載っ ていた。それは、つぶれてぐちゃぐちゃになった蝦蟇だった。  角太郎が声を上げて泣き出した。
 月明かりに照らされた庭には、いくつもの白い点があった。夏椿は一日花で 夕方には花が落ちてしまう。 「おめいには苦労をかける」  縁側に並んで腰掛けた一戊法師が云った。私は首を振ったが、少し考える。 「でも、どの子も何だか一癖あって、私の手に負えるのか心配です」 「ことさらに何かを教えようとしなくても、彼らは自然と学んでいくだろう」  そういうものなのだろうか。しかし、一戊法師は自信のある様子だった。 「かつて、私には共に戦った七人の仲間があった。私たちはそれぞれ欠けてい るものがあってね、その代わりのように仁義八行が一字ずつ刻まれた玉を持っ ていた」  一戊法師の声は、夜の庭に静かに流れて行く。 「彼らは私に望みを託して死んで行った。彼らの死闘のおかげで、私は私たち の目的を果たすことができた―――敵を倒したのだ」 「それって……?」  あの疫病の終息と関係があるのだろうか。私は七年前の酷く悲しい顔をした 一戊法師―――いや、確かあの時「犬塚信乃」と名乗った若い武士の姿を思い 浮かべた。 「あの子らは彼らの生まれ変わりだと思うのだ」  断言されて、私は思わず「額蔵も?」と訊いた。正直、今日出会ったばかり だからということもあるが、あの大人しい角太郎を怒らせた蝦蟇への所業とい い、今ひとつ得体の知れない怖さのようなものがある。  一戊法師は、額蔵には「義」の心が欠けているのだと云った。 「あれは私の親友だった荘助の生まれ変わりに違いない。私が里子に出された 庄屋で、下男として働いていた荘助が『額蔵』と名乗っていた」  とそこで、楽しげに語っていた表情が陰った。 「その友を私は斬った」 「―――え?」 「それだけではない。養父も、共に逃げようと誓った義妹も、この手で……」  一戊法師は己が両手を見下ろす。蒼い月の光に照らされた手のひらは、小さ く震えていた。それは、どこか花弁をいっぱいに広げた夏椿の花に似ていた。 夏椿は別名を沙羅樹と云う。昔、どこかの誰かがお釈迦様がその下で入滅した という沙羅双樹と間違えたのだそうだ。  でも、きっと私たちには有難い聖樹よりも偽物くらいがちょうどいいのかも 知れない。 「一戊法師、もう休みましょう」 「……そうだな」  人は間違えることもあるが、学ぶこともできる。人は罪を犯すこともあるが、 償うことができる。間違えても正しくても日々は続いて行く。  背後からは、子どもたちの平和な鼾が聞こえていた。
                                ■終■

記憶違い、解釈間違いなどあるかも知れませんが、ご容赦願います。あと、俳優 さんのファンの方には出家させて済みません……。 私としては、最後に必ずみんな生き返るだろうと信じていたのですが、そんなこ ともなかったので、こんなことになりました。子どもの名前はジュニアから、お 坊さんは犬ならぬ戌を分解してみました……。

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