風止まず

樹静かならんと欲すれども風止まず。子養わんと欲すれども親待たず。  火のついたような泣き声が、木立の間を貫いた。 おれは、慌てて釣竿を放り投げた。声の方へ駆け出す。あれは、力二郎か尺 八か。さっきまで、水際で沢蟹など捕らえて遊んでいたのに、いつの間にか姿 が見えなくなっている。  おれが目を離したからだ。泣き声が大きくなるにつれ、不安と後悔が増して いった。  身の丈ほどもある夏草の繁みをかき分ける。背後には、どこからともなく現 れた八房の気配がつき従っていた。 「尺八!」  猪だ。  大きな猪が、尺八を咥(くわ)えていた。まだ三つの尺八は、まるでウリの 子のようだ。側で、同い年の力二郎がつられて泣きじゃくっている。 「くそっ!」  おれは手近な小石を拾った。 「ウーッワンワンワン!」  八房も威嚇(いかく)する。  放った小石は、敵の目に命中した。猪が尺八を落とした。すかさず、もっと 大きな石を投げつける。  石は相手の頭を打ち、猪はいばらの繁みに逃げ込んだ。八房が後を追うのに 任せ、おれは尺八に駆け寄った。  尺八の背と尻から血が流れていた。力二郎は無事なようだが、二人は狂った ように泣き叫んでいる。  二人の泣き声と、うるさいほどの蝉の声が、頭の中でぐるぐる回る。額や首 筋を流れる汗は、いつしか冷や汗に変わっていた。  どうしたらいいか、判らない。  血止めの薬草はもちろんその他いろいろな薬の作り方も、この山に来て最初 の一年で、伏姫からほとんど教えられていた。しかし、それは知識として身に つけただけであって、実際に誰かに試したことはない。しかも、今はその手順 ですら何ひとつ思い出せないのだ。  その時、カサリと繁みが揺れた。また猪が戻ってきたのかと、背筋を緊張さ せる。 けれども、いばらをかき分けて現れたのは、八房だった。敵を仕留めたのか 追い払ったのか、身体には黒い斑(ぶち)にまじって赤いものが散っていた。 その悠然とした犬の姿を見て、おれはようやく自分がすべきことに気づいた。 「八房、二人を頼む。おれは誰か呼んで来る」 「それほどご自分を責めてはいけませんよ、親兵衛さま。尺八の命に別状はあ りませんし」  尺八の母親の単節も、力二郎の母親の曳手もそれぞれにおれを慰めてくれた。 今二人の子どもは母親の手に抱かれて、安心したように眠っていた。  胸が痛むのは、昼間の出来事のせいばかりではない。二人の安らかな姿に嫉 妬している、その自分の浅ましさが情けなかった。  おれにとって、両親は遠い記憶の存在でしかなかった。家族という概念は理 解している、と思う。滅多に人の立ち入らぬ山中の暮らしだが、この二組の母 子の他に、与四郎と音音の老夫婦が面倒をみてくれたり、いろいろ教えてくれ たりする。もちろん、皆とても親切だし温かく接してくれる。  けれども、どこか疎外感を感じる時がある。  これは、本当に狭量なおれのただの身勝手な感情でしかない。でも、おそら くおれ以外の皆は「本物」の家族なのだろう。彼らがここにいる経緯は詳しく は知らない。伏姫がおれを救ってこの富山へ連れて来たのと同様に、危機にあ った彼らも同じく不思議の力で助けられ、気づいた時にはここにいたのだと聞 いている。  そして、おれはもう一つ、誰にも確かめることができない疑念を持っている。  他の皆に倣(なら)って「姫神さま」と呼んでいる伏姫や、いつも煙のよう に現れては消える犬の八房は、もちろん人外の存在だろう。しかし、大変な老 齢に見える夫婦や、夫のいない若い姉妹の嫁、その姉妹が同じ日に産んだとい う赤ん坊。彼らが、果たして伏姫の同属でないと断言できるのだろうか。  いつか―――これだけは、伏姫に何度も云われてきたことだが―――おれが 山を降りて、どこかにいるという仲間と共に里見の家の為に戦う時が来たら、 彼らは幻のごとく消えてしまうのではないか。何故、そんな風に思うのかは判 らない。確たる理由はない。ただ、漠然と感じるのだ。  その時、おれは独りだ。  いつか、この人たちはいなくなってしまう。そんな小さな恐れが、ありもし ない疎外感を感じさせるのかも知れない。 「親兵衛、こちらへ」  いつものように伏姫の声が頭の中に響いた。おれは母子へ向けていた視線を 引きはがすようにして、岩室の外へ出た。  夏の盛りだが、山は日が落ちると急激に冷える。目の前を流れる川音と虫の 声が、却って静寂を引き立てていた。 出入口のすぐ側に大小二つの塚があり、それが伏姫と八房の墓である。伏姫 は自分の墓のあたりで待っていた。岩室の周囲は木々が開けていて、中天に昇 った月のおかげでぼんやり明るい。月を背にした伏姫は、どこか輪郭がにじみ、 見えているのに見えていないような不思議な存在だった。それは顔も同様で、 とても美しい姫だと認識しているのに、相対していないときにその容貌を思い 描こうとしてもはっきりしない。 「元気がありませんね」  声もまた、耳で聞くのとは違ったものだ。それと、更に――― 「あなたの心を占めているのは、尺八のことだけではありませんね?」  伏姫は、おれのことなど何でもお見通しなのだ。おれだけではない。姫は、 神通力で世の中のあらゆることを知っているのだった。  おれは意を決した。 「姫神さま」 今まで敢えて避けていた問いを口にした。 「……おれの、本当の両親はどうしたのですか?」  伏姫は少しの間、目を伏せた。やがて静かに面(おもて)を上げ、手近な岩 に腰掛けるように促した。 「あなたも、もう六歳。そろそろ真実を知るべきかも知れません」  そう切り出した伏姫の表情は、どこか苦しげでさえあった。  それは長い物語だった。結城合戦に端を発する里見家の話や、伏姫自身と八 房、そして飛び散った数珠(じゅず)については、以前に聞かされていた。ま だ山へ来たばかりの頃、伏姫はおれの持っている「仁」の文字が刻まれた珠を 示し、それは生前の姫が常に身に付けていた数珠の一部であることを教えた。 そして他に七つの珠があり、それぞれを持つ者がいることも知った。  今宵、伏姫は各々の決して恵まれているとは云えない境遇を語った。ほとん どが、おれと同じように幼くして両親を亡くしているとのことだった。けれど も、彼らは持ち前の技量や才覚によって命運を切り拓き、更にその命運は不思 議な縁によって少しずつ絡み合っている。もちろん、他人事ではない。  その一端は、おれ自身にも絡んでいた。 「あなたの両親は、身を殺して仁をなしました」  因縁は、おれの曽祖父だという杣木朴平にまで遡る。朴平が誤って殺してし まった那古七郎の弟の子がおれの母であり、その母ぬいの兄の小文吾もまた珠 を持つ者だと云う。  父房八は、同じく珠を持つ信乃の身代わりになって死んだ。それは、小文吾 も救う為であった。また、両親の死が秘薬になり、信乃の重い病が快復した。  その場にこのおれも居たのだ、と伏姫は続ける。  伏姫の話は、まるで書物の中の出来事のようでまったく憶えていないし、二 人の犬士についても何一つ思い出すことができない。ただ、両親や可愛がって くれた祖母のことはおぼろげな記憶があった。 「あなたが息を吹き返した時に、生まれてから一度も開いたことのなかった左 の拳に珠を握っていたことが判ったのです。―――親兵衛、何を笑っているの ですか?」  さすがの伏姫も、おれの心中を測りかねたようだ。何故なら姫は今、父上が 誤っておれを殺してしまった事実を打ち明けたところなのだから。  けれども、その事実は伏姫が慮(おもんぱか)るほどに、おれを傷つけたり はしなかった。自分でも不思議だが、さっきも云ったようにすべてが物語みた いで実感がないせいかも知れない。  何より、おれは生きている。  笑ってしまったのは、自分自身が一度死んで生き返ったという怪異の存在だ ったからだ。どうして、与四郎たちを疑うことができようか。人外の者と怪し まれるとすれば、こんな深い山の中で病一つせずに成長している自分こそ、里 の者が知ったら驚くだろう。もちろん、それは伏姫の不思議の力と、与四郎や 音音たちのお陰だけれども。  おれは独りなんかじゃなかった。天涯孤独の犬士がほとんどなのに、おれに は小文吾という伯父がいて、祖母もまだ生きているそうだ。また、本当の両親 の他にもこの富山に家族があり、そして七人もの犬士の兄弟がいる。これほど 恵まれた人間はいるだろうか。 「信乃は、感謝と嘆きの涙にかきくれ、あなたの両親の功徳を後の世まで伝え ることを固く誓いました」  一体、どんな人物なのだろうか―――おれは、いまだ見ぬ犬塚信乃に想いを 馳せた。  そもそも父上が身代わりになろうと思いついたのは、信乃に年や容貌が似て いたからだと云う。だとすれば、本物の父上に会うことは叶わぬが、父上の面 影を宿す人と会うことはできる。  これほど恵まれた人間は、おれの他にいるだろうか。 「姫神さま、他の犬士の方々とはいつ会うことができますか?」  今、小文吾は毛野を探すつもりが離島で足止めされ、当の毛野は故郷に潜伏 中、現八は大角と出会ったが、信乃や道節や荘助は他の犬士を探してそれぞれ に旅の途中である。伏姫の千里眼をもってすれば、彼らの居場所はすぐに判る。 今すぐにでも、おれが神隠しに遭ったと思い心配してくれている人々の前に出 て行って、無事を伝えたかった。  伏姫は、微笑んで云った。 「もうすぐですよ、親兵衛。そう遠い日ではありません」  ですが、と急に顔を曇らせる。 「それは、里見家やあなた方にとって、試練の時でもあります。その日の為に 知恵をつけ、己を鍛えなさい。何よりも、まずあなたは丈夫で健やかに成長す ることが大切です」 「はい」  力強く頷いた。  そうだ。今出て行ったところで、おれは皆にとっては何の役にも立たぬ、た だの子どもに過ぎない。だからこそ、人並み以上の速度で一人前にならなくて はならず、伏姫もそのつもりでおれをこの富山に導いたのだろう。 「それだけではありませんよ」  またもや、伏姫はおれの思考を読んで云った。 「与四郎は忠義心に富み、武芸も達者ですので、もちろんあなたの師となりま しょう。しかし、音音の心の強さ、賢さは男に引けを取りません。また、曳手、 単節の並外れた孝心は学ぶべきものです。このように優れた人々をあなたに与 えたのは、あなたに家族というものを知って欲しかったからです」  風樹の嘆、というのが「韓詩外伝」にある。孝養をしようと思い立った時に は、もう親は亡くなっているという嘆きだ。おれの場合、本当の両親は亡くな ってしまったが、守り育ててくれる第二、第三の親とも云うべき人々はたくさ んいる。その人たちに、孝養を尽くすことはできる。  その為にも、早く一人前になりたいと思う。 「おや、力二郎が泣いていますよ」  耳を澄ますと、確かに室内からぐずるような泣き声がしている。ただし、お れには力二郎と尺八の区別はできなかったが。 「チビ助たちを寝かしつけるのは、おれの仕事なんです。どっちもさっきまで 母親に抱かれてさんざん眠っただろうに。困った奴らだな」  伏姫に別れを告げ、岩室に引き返す。  今晩は、どんな物語を二人にしてやろうか。幸い犬士たちの勲(いさおし) ならば、いくらでも知っている。大角たちの山猫退治か、あるいは毛野が馬加 一家に復讐を果たした話か。だけど、皆殺しの話など幼子を寝かしつけるには、 ちょっと刺激が強すぎるかも知れない。  夜気で冷えた身体に、戸口からもれる光はいかにも暖かそうに見えた。 ■終■
おそらく退屈であろうお話にお付き合いいただき感謝です。殆ど自己満足です…。 しかし親兵衛、出てくるまでが長いので、まあこんな時代もあったかな、と。 それにしても、今更ですが、どうして一人称で書き始めちゃったんだろう……。

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