春爛漫

 手加減などしていたら決して敵う相手ではない、ということにはすぐに気づいた。しか し、本気で立ち向かうには、どこか躊躇(ためら)いがある。  それは、相手の容貌のせいだろうか。年の頃はまだ若く、孝嗣より幾つか下くらいか。 着ているものは元は上等なもののようだが、薄汚れていた。そして、同様に顔もまた薄汚 れているにもかかわらず、凛々しく整っていて、卑しい身分でないであろうことは想像で きた。  だからこそ、孝嗣は声をかけたのであった。少年は松の根元に横たわっていた。今日は 随分と暖かくはあるが、戸外で昼寝もあるまい。季節柄、花見客が酔って寝ていたりもす るが、そういう感じでもない。どこか高貴な家柄の少年が、慣れない一人旅の途中で倒れ たのではないかと心配したのだ。  それが、この始末である。  孝嗣の剣先は、またしても鉄扇に易々と逸らされた。細腕である。武器は他に短刀を腰 に帯びているが、そちらは抜こうとはしない。先ほどから鉄扇一本で、孝嗣の剣を受けて いる。しかも、こちらが劣勢なのだ。  油断していたのは、ほんの最初だけだった。倒れていると思った相手にいきなり投げ飛 ばされ、辛うじて受身を取って相対したときには、すでに並みの少年ではないことは判っ た。だからこそ、次の瞬間には孝嗣は腰のものを抜いていた。  けれども、本気で打ち込めないでいるのは、油断や手加減ではない。相手の表情のせい だ。端整な色白の顔は余裕そのもので、どこか楽しんでさえいるようだ。殺気の片鱗すら ない相手に、どうして本気を出せようか。孝嗣の生真面目さは時に甘さと云われるが、父 譲りのこの性格は孝嗣自身にとってはむしろ誇りである。  もちろん、その甘さが命取りになることを知らないわけではなかったが。 「やあっ!」  気合の入った掛け声と同時に、鋭い一閃が孝嗣の目を射た。  我に返ったときには、自分の右手は何も掴んでおらず、紙一枚の距離で鉄扇が喉元に突 きつけられていた。 「申し訳ない」  意外に高い声で云い、相手はあっさり鉄扇を引いた。そして、懐から水晶らしい小さな 珠を取り出す。 「これに光が反射して、あなたの邪魔をしたようだ」 「戦場では何も云い訳になどなりません。すべて私が未熟なせいです」 「真面目な人だなぁ」  少年は、にこりと笑った。その笑顔はまだ幼く、よく見れば女子(おなご)のような面 差しをしている。 「あなたの腕は、決して悪くない。悪かったのは、相手がおれだったってことかな?」  ただし、性格には多少難がありそうだ。  少年は、中心に「仁」の文字が刻まれている珍しい珠を、再び丁寧に懐にしまった。そ して、孝嗣の愛刀を拾い上げると、無造作に差し出した。一度は失ったと思っていた大切 な刀で、つい先ほど取り戻したばかりのものだった。 「せっかく命拾いをしたのだから、大切にした方がいい」  少年が指しているのは、今の自分たちの戦いのことではなく、その前のことだと察せら れた。おかしなことに、孝嗣は今さっき死刑を免れたばかりだということを、すっかり忘 れていた。  それにしても、と孝嗣は思う。  そもそも、その大切にすべき命を危機にさらすような真似をさせたのは、最初に仕掛け て来た相手の方ではないか。 「私は、てっきり君が癲癇(てんかん)か何かで倒れているものだとばっかり……」  そして、次には新手の盗賊や、狐狸妖怪の類ではないのかとさえ疑ったのだが。 「あれは、あなたを試したんだ。気を悪くしたのなら、ごめんなさい」 「いや、別にそういう意味では……」  素直に謝られては、怒る気にもなれない。素性の想像もつかなければ、行動の予測もつ かない、何だか不思議な少年だ。 「だけど、お陰であなたが信用するに足る人物だと判った。それから、剣の腕もね。さて、 いつまでもこんなところにいることはない。落ち着けるところで、話をしよう」  少年は、返事も待たずに無邪気に孝嗣の袖を引いた。そんなところは、まるで子どもじ みている。 「一体、君は―――」 「あ、まだ名乗ってもいなかったね。でも、きっとあなたはおれのことを知っているよ」  孝嗣は首を傾げた。心当たりはない。ただ、この少年と同じように見かけをまったく裏 切って、恐ろしく強い人物なら知っていた。  その人は、孝嗣に生きろと云った。  あの時に救われた命を、無実の罪でむざむざと失うことなどなくて、本当に良かった。 今頃になって、孝嗣は生きていることを、その喜びを実感した。  少年は何もかも解っているような聡明な顔で云った。 「おれは、犬江親兵衛仁。あなたのよく知っている毛野や道節の義兄弟だ。よろしく、河 鯉殿」  それが、河鯉佐太郎孝嗣と八犬士の一人―――親兵衛との最初の出会いだった。  美しい人だと思った。  その時、その人は大道芸人として大袈裟に派手な恰好をしていたが、端然とした美しさ や気品はそう易々と隠せるものではない。  孝嗣は、父守如が相手を説き伏せている間じゅう、その人から目を離せずにいた。父は、 彼が披露していた居合い抜きの並々ならぬ技や、逃げ出した蟹目上の猿を捕らえた時の素 早さ、またいくらか技量を試したりもして、相手の実力を確信した。そこで父が持ちかけ た話は、後々孝嗣ら親子の運命を大きく変えるものであった。しかし、孝嗣は父の判断を、 今でも間違っていたとは思わない。父の望みと、その人―――犬阪毛野の宿願が合致した こともまた、運命なのであろう。  もっとも、そういったことを考えたのは後になってからで、その時はただ犬阪毛野の美 しさに心を奪われていただけであった。 「何か珍しいものでもあった?」  親兵衛に声をかけられて、孝嗣は我に返った。  両国河原のこの辺りは、茶屋や飯屋などが立ち並びなかなか賑やかだった。露店や見せ 物をする芸人などもいて、さながら祭りのような人出である。その華やかな空気が、いつ かの湯島天神の境内を思い出させていた。孝嗣が、初めて犬阪毛野の姿を目にした日だ。 「いや、何も……」  云いかけて、孝嗣は親兵衛の様子に気づいた。 「犬江殿、どこか具合でも悪いのですか?」  顔色が悪いようだ。もともと、急ぎ旅のところに船がなく、親兵衛は焦りのためか不機 嫌ではあった。しかし、天候ばかりは焦ってどうにかなるものではない。孝嗣は、せっか くだからと親兵衛を誘い、眺望も素晴らしいと云われる近辺を散策していたのであった。 「うん……あまり人の多いところは、ちょっと苦手」 「ああ」  親兵衛は人里離れた山育ちだと聞く。怖いものなしと思われた勇猛果敢な犬士にも、苦 手なものがあったとは。孝嗣は、何だか微笑ましく思った。 「あの茶屋で、少し休みましょう」  孝嗣の提案に、親兵衛は素直に頷いた。  親兵衛は、本当に不思議な少年である。過剰なほどの自信家のくせに、自分の欠点や弱 点はあっさりと認める。もとが素直な性格なのであろう。  それでいて、生い立ちはあまりにも過酷である。普段は十六、七歳にも見える外見もあ って、さほど年齢的なことは気にしていない。頭の回転も速く、博識で、もちろん武芸は 云うに及ばず。孝嗣は親兵衛のことを対等の……いや、むしろ敬うべき友と考えていた。 しかし、時折ふと見せる本来の幼さに、孝嗣の胸は痛む。 「君は、やはり心の臓が悪いのではないですか?」  茶屋に入ってから、腰掛けた親兵衛はずっと右手を懐に当てていた。二人が初めて出会 った時、倒れていた親兵衛を助け起こそうとした孝嗣は、少年の脈がないことに気づいた。 孝嗣を試すためなどと云ってはいたが、実際に何か持病があるのだとしたら―――  孝嗣の思案に反して、親兵衛は照れたように笑った。 「いや、ここに大切なものが入っているんだ」 「宝物? あの霊玉のことですか?」 「それもあるけど、もう一つある」 「ほう、それは何です?」  さして興味があったわけではなく、孝嗣は何気なく問うた。けれども、意外や親兵衛は、 色白の頬をさっと赤くした。 「教えない」  そう拒まれれば、知りたくなるのが人情である。 「では、私の宝物をお教えするのと交換でいかがですか?」 「え、河鯉殿の宝物?」  孝嗣は、自分の懐に手を差し入れる。その手を、親兵衛が着物の上から慌てて押さえた。 「だめだめ! それを見せられたら、おれも教えなくてはならないじゃないか」 「いいではないですか。私は別に恥ずかしくありませんよ」 「おれだって、別に恥ずかしいわけじゃ……いいや、その手には乗らない」  親兵衛は、絶対に見まいとするかのように、ぎゅっと目を瞑ってしまった。そんなとこ ろは、やはり年相応である。  孝嗣は、親兵衛に構わず懐のものを取り出した。手のひらに載せたそれは、桃の花飾り のついた簪(かんざし)だった。孝嗣はこの宝を特に秘密にしているわけではなかった。 これを見た誰もが孝嗣の恋人のものだろうと勝手に納得し、詳しく聞かれたことはない。 ただの女性の髪飾りにしては、あまりにも柄の先端が鋭いことには、誰も気づかなかった。 「旦開野の……毛野のものだね?」  親兵衛は、片方の目蓋を薄く開けていた。 「……鈴が森で拾ったものです」  鈴が森は、犬阪毛野が父の仇である籠山逸東太縁連を討ち果した場所である。戦場とは あまりにもかけ離れた可憐な小物は、孝嗣の目を惹いた。毛野が、正体を女田楽の旦開野 と偽り、馬加大記常武に仇討ちを果たしたことは巷に知られた話だ。だからといって、こ の簪の持ち主が毛野だとする理由はない。理由はないが、毛野のものであろうという確信 はあった。  だから、拾った。  あの人には、二尺八寸の白大刀などよりも、舞扇の方がよく似合う。いつかまた出会う ことができたなら、持ち主に返そうと思った。これを持っていれば、必ずその機会もある だろうと。そして―――  今、同じ八犬士に連なる親兵衛と出会った。親兵衛は、孝嗣を見込んで里見殿に仕える よう勧めてくれた。失うはずだった命を救われたことも、よい出会いに恵まれたことも、 この宝物のおかげに違いない。孝嗣は、そう思っている。  その時、俄(にわ)かに慌しい足音がして、若い女が飛び出して来た。腰を浮かせた孝嗣 に抱きついてくる。 「助けてください、お侍さん」  怯えた声で云って、女は孝嗣を盾にするように背中へ回った。細い指が、孝嗣の二の腕 を強く握る。密着させた身体からは震えが伝わって来た。白粉の匂いが鼻腔をくすぐる。 「兄さん、邪魔だてはしないでもらおうか」  周囲の野次馬が左右に分かれ、体格のいい男が現れた。人相が悪く、着崩した恰好はい かにもごろつきといった感じだ。 「しかし、この人は私に助けを求めている」  孝嗣が生真面目に答えると、男はにやりと笑った。 「なあに、そいつは俺の女房でさ。ちょっとした夫婦喧嘩さ」 「本当なのか?」  肩越しに問うと、女は「残念ながら事実さね」と舌打ちした。 「さあ、お武家さんに迷惑をかけちゃいけない。さっさと、来るんだ」  云い終わらぬうちに、男は女房に背を向けた。女房は、渋々と孝嗣の腕を離した。その まま何も云わずに、小走りに男を追いかけようとする。 「ちょっと、待って!」  高らかに呼び止めたのは、親兵衛だった。よく透る声だったにもかかわらず、女は止ま らなかった。親兵衛は素早い動きで、次の瞬間には女の手首を捕らえていた。 「その袖の中のもの、返してもらおうか」  野次馬がざわついた。孝嗣は、何のことやらさっぱり解らない。 「おれのことを侮ったら後悔するよ。さっきの男も捕まえた方がいい?」  親兵衛の口調も表情もむしろ無邪気なくらいだったが、手には力が加えられたらしく、 女は顔をしかめた。観念したか、空いている手でもう一方の袖を探る。 「ふん、こんなガラクタ!」  果たして、女が乱暴に地面へ投げたのは、孝嗣の簪だった。 「いつの間に……」  孝嗣は自分の懐を確認する。掏(す)られたことなど、まったく気づかなかった。 「おれたちの話を聞いていて、値打ちものだとでも思ったのだろう? でも、これはおま えにとっては別段価値のあるものではないよ」 「……どうだか。だったら、あたしら貧乏人にくれたっていいじゃないか」 「だけど、あの人にとっては大切なものだ。金銭的な問題じゃ―――」  親兵衛の胸に、湯呑がぶつけられた。 「母ちゃんを放せ!」  孝嗣の近くにいた子どもが、次の湯呑を手にしている。  思えば、親兵衛は子どもに気づいていた。だとすれば、わざと茶を浴びたということか。  孝嗣は、この親子に宝物の簪をやってもいいような気になった。もちろん、金銭的には 何の助けにもならないだろう。しかし、孝嗣に幸運をもたらしたのと同じように、彼らの 役には立つかも知れない。 「それほど欲しいならば、持って行くがいい」  女は孝嗣の顔を見た。親兵衛がもう手を離していることに気がつき、屈んで簪を拾うと 一目散に人ごみに紛れた。子どもが後を追いかけて行く。  親兵衛は、湯呑を拾って戻って来た。 「本当に良かったの?」  孝嗣は頷いた。 「あれはお守りみたいなものですから。私の願いは近いうちに叶う予定ですので、もう必 要ないのです」  そう遠くないうちに、犬阪毛野と再び会うことができるだろう。しかも、今度は小川を 挟んだ敵味方ではない。同じ側に立って共に戦うこともできるのだ。 「それより、犬江殿こそ大丈夫ですか?」  恐縮した茶屋の主人から手拭を渡された親兵衛は、にこりと微笑んだ。 「じゃあ、おれも宝物はもう要らないや」  そう云って懐から取り出したのは、折りたたんだ紙だった。濡れて四辺がくっつき、上 手く広げることができない。あちこち千切れて開かれた紙には、滲んだ墨で人の顔のよう なものが描かれている。  それは、犬塚信乃の人相書きだった。  物騒な宝物だが、彼の父親の形見とも云える。信乃によく似ていた親兵衛の父親は、信 乃の身代わりに首を差し出したのだと聞いていた。 「兄弟たちに会えるのも、もうすぐだからね」  宝物は細かく千切られ、ただの紙屑となった。  折りしも、春爛漫。紙片は風に乗り、桜の花びらのようだった。しばらくそれを眺めて いた親兵衛は、やがて孝嗣を振り返って云った。 「そろそろ行こうか、河鯉殿」                                      ■終■
八犬軒というサークルを始めて一番最初に出した有料の本です。おかげさまで完売になりま したので、こちらにアップすることにしました。改めて読み直してみますと、最初の頃の純 粋な気持ち(?)を思い出します。親兵衛と孝嗣の出会いは、八犬伝でも好きな場面です。

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