青き実、八つ

 何かが優しく額に触れて、親兵衛は顔を上げた。涙に濡れた視界には、四方 に張った枝が見えた。どの枝も若々しく伸び、瑞々しい葉を繁らせている。そ の葉の間からは、まだ青い梅の実が丸い姿をのぞかせていた。 「これが、あの八房の梅……?」  梅の実の枝は、どれも八股に分かれた珍しい形をしている。  かつて、八つの梅それぞれに自分たちの持つ珠と同じ八行の文字が浮かんだ ことがあると云う。これはその梅の種から育ったものだった。種をこの場所に ―――親兵衛の両親の墓に植えてくれた人のことを想い、また涙が溢れた。 「この梅の樹が生えてから五年経ちますが、実をつけたのは今年が初めてなん ですよ」  両親亡き後、実家の犬江屋を守ってくれている依介が云った。  親兵衛の両親の死は、理由(わけ)あって周囲に伏せられた。そのせいで墓 標も建てられずにいたのを、富山にいた親兵衛に代わり、時機を見て立派な墓 碑を建ててくれたのも依介だった。 「この通り珍しい実なので、近隣では八房の梅と呼ばれています」  依介がしみじみと云ったのは、親兵衛の父の名―――房八との不思議な縁を 感じたからだろう。  しかし、親兵衛はその名に連なるもっといろいろな出来事や人、もっと不思 議な縁を知っていた。すべては親兵衛が幼い頃か、或いは生まれる以前の出来 事であったが、富山で伏姫に繰り返し聞かされていた。だから、その場にいた 者と何ら変わることなくすべての悲しみを我が事のように感じることができた。  即ち、伏姫の悲壮な決意と犬の八房のこと、幼い信乃と荘助の悔しさ、父房 八と母沼藺の死、そして梅の実を植えた信乃の想い―――  身を挺して自分の命を救ってくれたことを忘れぬため、とここに八房の梅を 植えたのは犬塚信乃だった。  それから、五年。親兵衛は初めて両親の墓参りが叶った。故郷の人々は親兵 衛が立派になって帰ってきたことを祝ってくれた。  それなのに。  この立派に成長した梅の若木に比べ、なんと自らの身の情けないことか。親 兵衛は先程までの悲しみではなく、今度は悔しさで新たに涙した。  この度の帰郷は、凱旋ではない。云わば体よく暇を出されたようなものだっ た。表向きは、他の犬士を探すという命を与えられた。しかし、主君・義成は きっと自分を疑って追放したのだ。事の真偽を糾されれば、真実を主張するこ ともできるだろうに、疑いを晴らす機会さえ与えられなかった。それが悔しい。  絶対に、最もあり得ないことだった。自分と浜路姫が恋仲だ、などというこ とは。何故なら―――  親兵衛は願った。この事実無根の噂が、くれぐれもあの人の耳に入らなけれ ばいいが、と。  幽(かす)かな物音がした気がして、親兵衛はビクリと目を覚ました。いつ の間にか居眠りをしていたようだ。頬杖をつくのに肘を預けていた双六台をそ っと元に戻し、耳を澄ませた。  辺りは静まり返っている。行灯がぼんやりと照らすだけの室内は暗く、夜明 けにはまだ間があるらしい。火鉢がほんのりと温かいことからも、まどろんで からそう時が移っていないことが判った。ひとまず、親兵衛は安心した。  浜路姫の臥所も特に変わりはないようだ。源氏物語を読んでいた女房の声も しないので、浜路姫も眠りについたのだろう。  親兵衛は、夜毎怨霊に悩まされる浜路姫の宿直を仰せつかっていた。親兵衛 の持つ霊玉を床下に埋め、親兵衛自身が臥所の次の間に一晩中待機することに よって、浜路姫の症状も次第に良くなってきた。最近では怨霊が出ることもな く、或いは連日の疲れのせいか、少し気が緩んでいるのだろう。うっかりする と、舟を漕いでしまうことが度々だった。 「……さま、犬江さま」  咄嗟に、親兵衛は腰の刀に手を掛けた。 「犬江さま、そこにいらっしゃる?」 「浜路姫……?」  声は、確かに臥所の襖(ふすま)越しに聞えてきた。  親兵衛はそちらに向き直った。腰にやった手はそのままだった。 「どうかされたのですか?」 「いいえ、別に」 「他の者は?」 「皆、眠ってしまったの。きっと疲れているのね」  宿直を始めて五日目。顔見知りになった女房が声を掛けてくることなどはあ ったが、浜路姫自身の顔は見たこともなければ、声さえ聞いたことがなかった。 「早くお休みになってください」  周囲を気遣って小声になった。親兵衛は元服前ではあったが、夜中に高貴な 女性と話などしていいものではないことくらいは心得ていた。 「ちょっと、お話をしたいの」 「別に今でなくても……」 「あなた、私のことが嫌いね……?」  一瞬、言葉に詰まった。  浜路姫の目的がよく解らない。それが、どことなく―――こんなことを人に 知られたら笑われるだろうが―――怖かった。武器や殺気をもって立ち向かっ てくる相手には、いくらでも応戦できる自信はある。だが、言葉による誹謗中 傷や、更には言葉もなく態度にも表さない怨恨などは、一番の苦手だった。浜 路姫の声には、好意的ではない何かが含まれていた。 「そ、そういうことでは……」 「隠さなくてもいいわ。私には判るもの」 「…………」  親兵衛は、暗く影になっている襖をじっと睨んだ。  唐突に笑い声がした。あまりにも周囲を憚らない声に、親兵衛は思わず片膝 を立てた。 「姫……!」 「気にすることなんかないわよ。所詮、私は野蛮な田舎育ちだもの。今更、姫 だの何だのと大切にされても、窮屈なだけ」  これは物怪(もののけ)の仕業なのだろうか、と親兵衛は危ぶんだ。そもそ もこの度の怨霊とは、浜路姫の育て親の夏引という女だと云われていた。赤ん 坊の時に鷲に攫われた里見家の五の姫は、甲斐国で拾われ育てられたのだった。 「あの晩も、私は夜中にこっそり訪ねたわ。―――信乃さまのお部屋を」  そして。甲斐でその養家にたまたま逗留し、かつての許婚と同じ名の娘と出 会ったのが信乃だった。その後、娘が五の姫だと判明して安房に連れて戻るま でには、いくらかの経緯があるけれども。 「だって、私が女だからと云って遠慮なんかしていたら、敵わないでしょ?」 「敵わない……って?」 「あなた、に」  何を云っているのだろう? それとも、年頃の娘というのは皆、理解不能な ものなのだろうか? 神女の伏姫しか知らぬ親兵衛には答えの出しようもない。 「え……?」 「だいたい、義兄弟とか云うのが気に入らないわ。何なの、それ? そんな会 ったこともないような人たちが、親より恋人より大事なワケ?」 「それとこれとは話が違う! 姫には解らないよ!」  さすがの親兵衛も、義兄弟を侮辱されては黙っているわけにはいかない。 「解らなくて結構! 女にはね、女の武器があるのよ」  親兵衛、ちょっと不安になった。 「……それって、強い?」 「ふふふ。さあ、どうかしら」  こんなに自信満々ならば、さぞかし凄いものに違いない。  もとより口喧嘩などしたことのない親兵衛なので、形勢は著しく不利だった。 相手の姿が見えないこともいけない。暗い小部屋で一人、青くなったり赤くな ったりしていた。  しばらく、襖の向こうが静かになった。物怪が去ったのだろうか。  親兵衛は、いつものように臥所に背を向ける姿勢に戻ろうとした。その時、 襖が開く音がした。 「―――私、負けないわよ」  すぐ背後で浜路姫が云った。親兵衛は振り向くことができなかった。 「あなたにも。浜路の幽霊にも、ね」 「……姫、幽霊なんて酷い」  幽霊呼ばわりされたのは、信乃の許婚だった大塚の浜路のことだ。 「あらそう? もちろん、ご先祖さまなどを軽んじるつもりはないの。でも、 やっぱり死んでしまった人より、生きている人の方がずっと大事だと思わな い?」 「生きている人の方が……?」 「だって、私たちは生きているのだから」  親兵衛は振り返った。 「……浜路姫?」  襖は開いてなどおらず、もとの通りぴたりと閉ざされていた。ただ、ふわり と香の匂いが漂った。  この日から、親兵衛の苦手なものに浜路姫が加わったことは、他の誰も知ら ない。 「若旦那、大丈夫ですかい?」  依介が、親兵衛の背に手を触れた。親兵衛は、袖で目元を拭った。 「ごめん、もう平気。今日、今までのぶん全部泣いた。これからは、生きてい る人たちのことを考えないと」  立ち上がった親兵衛を、依介が眩しそうな顔で見ていた。親兵衛の言葉の意 味は解っていないだろうが、満足気に頷いて云った。 「じゃ、帰りましょう。きっと水澪が旨いもん用意して待ってますよ」  依介は恋女房のことを口にするときは、必ず顔がにやける。夫婦とはこうい うものなのだろうか。 「そうだ、依介」  先に立って歩き出した依介に、親兵衛は声を掛けた。  小道の両側には躑躅(つつじ)が咲き、赤い道しるべを作っていた。新芽の 出揃った木々は鮮やかな黄緑色で、濃い緑の匂いがするようだ。空は良く晴れ て陽射しが強く、少し汗ばむくらいの陽気だった。 「若旦那はなしだよ。店はもう、おまえに任せているんだし」 「そうおっしゃられてもねぇ。犬江屋は、やっぱり坊ちゃんのものですよ」 「おれは商売のことはからっきしだもの。……って云うか、坊ちゃんもやめろ」  依介は肩越しに苦笑する。 「だってねぇ、おいらの知っている頃の坊ちゃんは、まだ四つの小僧っ子だっ たんですよ。それが、急にこんな立派なお侍さまになられてねぇ。旦那さまに もお見せしたかった」  どうやら泣いているようだ。今度は親兵衛が依介の背中をたたいた。そして、 そのまま追い越して前に立った。 「おれは犬江屋の名前だけ継ぐ。だから、店はおまえのいいようにやってくれ。 だいいち、おれはお仕えする方があるのだから」  自分で云ってから、不意に気づいた。  そうだ。自分自身の見聞を広めることと他の犬士を探すことは、主君の命令 である。ならば従わなくてはならない。こんなところでいじけていていいはず がなかった。  義成は、八人揃って戻って来いと云った。戻って来い、と。だったら、親兵 衛のするべきことは、早く他の義兄弟と会って、そして戻ることである。遠ざ けられたわけではないのだ。  心ない讒言をした者がいたのかも知れない。しかし、きっと名君はそんなこ とには惑わされないだろうし、真実はいつか伝わるだろう。親兵衛が、常に誠 実で迷わず、正しい態度を崩さなければ。  澄んだ空の青色が目に沁みる。すっと心が晴れるような気がした。 「坊ちゃん、何をそんなに急いでるんですか?」 「もう、いろいろやることがあるんだよ!」  親兵衛は、どんどん早足になっていた。依介が小走りに追いかけて来る。 「急がないと、なんか先を越されそうな気がする」 「えっと、誰に、何を……?」  一刻も早く、犬塚信乃に会わなければならない。 既に負けているかも知れないのだ。何しろ相手は凄い武器を持っているらし いのだから。  だけど、何がどう負けているのかとか、まず根本的に会ってどうするつもり なのか、そもそも何の勝負なのかということが、親兵衛自身にも判っていない。 「依介、まずはご先祖さまの墓参りをするぞ」 「……はあ?」 「おれは死んでいる人も生きている人も大事にするんだ」  これってちょっと浜路姫に勝っているのではないか、と親兵衛は胸中密かに 考えた。育ての親も、親兵衛の心掛けをさぞかし誉めてくれるに違いない。 「さあ、依介。菩提寺に案内してくれ」 「何だか判りませんが、坊ちゃんのご希望とあらば、参りましょう」  依介は、洟をかんで云った。 「だけど、坊ちゃん。先を急ぐのもいいですがね、やっぱり犬江屋は坊ちゃん の『家』ですから、時々は戻って来てくださいよ」  親兵衛は立ち止まる。依介は、くしゃくしゃの顔で微笑んだ。 「……うん、有難う」  依介に、そして両親の墓の方向に一礼して、親兵衛は再び歩き出した。 ■終■
浜路姫をちょいワルにしてしまいました…ごめんなさい。夏なので怪奇特集? そして、どんどん登場するマイナーキャラ…ごめんなさい。あなたの知らない 世界…?

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